大橋巨泉のショートエッセイ - 巨泉の本物を見る
少女は何処からでも貴方を見ている
『真珠の耳飾りの少女』が日本に来るようですね。おそらく現在世界中で、最も有名な西洋絵画の中の一枚でしょう。またフェルメールの代表作という意味でも、『牛乳を注ぐ女』と、『デルフト眺望』とこの絵の三枚のうちの一枚といって、あまり論争は起らないと思います。
この絵は、オランダはハーグ市にある、マウリッツハウス美術館に所蔵されています。ボクはこの少女に会うために、この美術館に数回通いましたが、ほとんどはアムステルダムから列車で行きました。駅から歩いて行くのですが、なかなか趣きのある街で楽しめます。しかし東京でこの美しい絵を見られる方は、本当にラッキーだと思います。何故なら、他の二枚に十二分の評価と敬意をもちながら、ボクはやはりこの少女の絵こそ、フェルメールの最高傑作と考えるからです。
フェルメールは“謎の画家”とも呼ばれ、その作品には何か謎めいたものが含まれています。しかしそれでもこの絵だけは、特別の「思い入れ」を感じるのは、果してボクだけでしょうか。まず背景が黒であること。この画家は、よく背景に何かを語らせるのに、この絵のバックは真っ黒です(他に黒バックの絵は一枚しかありません)。それはもしこのモデルが彼の本当の娘だとすれば、やはり特別な思いを込めたのではないか(映画では別の解釈でしたが)。背景を黒くすることで、少女の目と、真珠と、半開きの唇に当る光を、際立たせたかったのでしょう。ボクが娘だと思うのは、これだけ美しく画いているのに、官能性が感じられないからです。美しい愛娘の一瞬を永遠なものにしたい、とフェルメールは思った。ちょうど平安時代の僧、遍昭が「天津風雲のかよひぢ吹きとぢよ 乙女の姿しばし止めむ」と詠じたように。空間も時間も全く違う西洋の画家と東洋の詩人が、同じ一瞬を歌ったとしたら、それは芸術の奇蹟ですね。
ボクはいつもマウリッツハウスのこの部屋に入ると、少女を見ます。彼女もボクを見ています。正面に立っても、ボクを大きな瞳で見ています。ちょっと放心したような表情を読み取ろうとしますが、大体は失敗します。そして部屋を出る時、全く違う方向なのに、彼女はまだボクを見ているのです。嘘だと思ったら、やってごらんなさい。
「マウリッツハイス美術館展 オランダ・フランドル絵画の至宝」は、2012年6月30日(土)~9月17日(月・祝)、東京都美術館(東京・上野)で開催。その後、神戸市立博物館(神戸市)でも開催。